世間が狭いとは
皆さん、こんにちは。
食品スーパーで店長をしている「てっちゃん」です。
世間は狭い。
よく使われる言葉である。
どのような時に使われるか。
顔見知りが近くの競合店舗の店長として赴任してきた。
同僚が昔お世話になった他県の店長の店舗に赴任した。
学生時代の仲間が赴任先の店舗での優良顧客であった。
これはほんの数事例であるが、それぞれが上記のような運命の巡り合わせではないかと思われるような偶然を、いくつか体験しているのではないだろうか。
それによって、この世の中本当に広いのに、よくぞこのような偶然を引き起こしてくれたものだと思ってしまうことがある。
そして50年も昔であればほとんど奇跡のような偶然の巡り合わせだったろう。
しかし今やネットの時代であり、見知らぬ遠方の方と簡単に友達関係を築ける時代である。
よって、友達の友達のまたその友達が偶然に同じ職場であったなどという話は、意外によく聞く話として通っているのではないだろうか。
但し自らがそのネットワークに参加していなければわからない。
ことほど同様に、世間を狭くも広くもしているのは、その本人なのである(笑)。
自らの行動が世間を狭くも広くもしているのである。
自らの行動とは、その行動力を以って外に出る、ということである。
自らの行動を以って自分の地域の外のネットワークに参加する。
自らの行動を以って企業の枠を超えてコミュニティに参加する。
自らの行動を以って共通の趣味を持つコミュニティに参加する。
等々、現在の仕事の枠の中で、一歩外に出てみて同じ業界の他者と関係を築いてみるとか、一歩外に出てみて同じ趣味を持つ人間との関係を築いてみるとか、一歩外に出て他業種の方とのネットワークに参加してみるとか、いろいろなきっかけはあるだろう。
大切なのは自らの意志で自らの行動を起こすこと。
そしてそれがきっかけとなり、今までには無い新たな出会いが生まれていく。
それは自分が想像していた以上のインパクトをもたらすものである。
そうやって、どんどん外部との関係を築くことによって、自らのネットワークが広がり、その広がりの中での人間関係の拡大の結果が、いつの間にか「世の中が狭い」と感じるようになっていくのである。
「世の中が狭い」と感じるのは自分自身の行動の結果なのである。
よって、その延長線上に「顔の広い」存在となっていくのであろう。
顔が広い人間ほど、世の中は狭いのである。
“あんまり顔が広くなりたくない”
と思っても、相手が自分を知っているという関係になっていく。
芸能人や著名なスポーツ選手のスキャンダルも同様ではないのだろうか(笑)。
自分では相手を知らないが相手は自分を知っている。
よって、知らない相手に付け回されて挙げ句の果てにはその瞬間を撮影されている。
その話と先ほどの「世間が狭い」という話は多少趣旨が異なるかも知れないが、結果的に顔が広くなっている点では同じであり、いつの間にか自分は知らないが相手は自分を知っているという関係が出来上がってしまうことはよくあることだ。
「世間が狭い」。
これを如何に自分に活かすかどうかが重要であろうか。
その顔の広さを以って行動する。
そこには従来には考えられないほどの可能性が宿るのではないだろうか。
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コメント
dadamaさん、コメントありがとうございます。
人脈の広がりと繋がり。
この二つの方向に進めば進むほど、この世は狭くなるばかりかと思われます。
そしてネットやSNSという繋がりがそれを加速度的に結びつけていく時代。
いずれにしても自らの行動が全てという原理原則は不変でしょうか。
投稿: てっちゃん | 2021年2月15日 (月) 21時24分
お互い身をもって動く事が人生を拡げる事を体感してきたと言えるでしょうか。てっちゃんが仰る通り大切なのは意思を持つ=志や課題を持って動く事。出会いがあっても相手が興味や共感を持ってくれねば強い絆は結べませんから。
全ての方々とすぐに絆を結べる訳でもない。切磋琢磨し議論し学び飲ミニケーションし(笑)。
世間が狭くなる事は自らの幅や奥行を広めて行く事ですし人生の成長や豊かさにも繋がりますね。
投稿: dadama | 2021年2月15日 (月) 15時49分