認識のズレ
皆さん、こんにちは。
食品スーパーで店長をしている「てっちゃん」です。
現場から離れているおかげで、今年の夏は、商売という記憶が無い。
そして、その8月が終わろうとしている。
正確には、7月から8月の二ヶ月間の記憶が無い。
“記憶が無い?”
いやいや、生きてきた記憶はあるが、自分の納得できる仕事上の記憶が無いと言う事だ。
そんな言い方をすると、仕事をサボっていたのかという疑惑を持たれてしまうが、そういう事ではなく仕事上の納得感と充足感が無くその連動で記憶に残っていないという事だ。
逆に言うと、自分の店舗を持たず、お客様も持たず、販売面での充足感を得ない日々ではあるが、研修を通じての教育面での関わりと店舗を一から立ち上げる基礎固めに全面的に関わってきた「夏」であった。
このような状況の中、自分的には不満足な一夏であった。
しかし、自分の認識と他人の認識の違いを知る事にもなった。
自分としては不満足なこの状況。
販売面での進化が止まってしまったと認識し、自分の成長を感じない現状であり、その内面の不満を持つ自分という自己認識なのだが、他者からみた「私」は、新店での「接客面」での取り組み面を評価されている。
“どうして、自分の不満を分かってくれないのか”
目に見える部分は自分以上に認識されるが、内面はほとんど分かってもらえない。
もう、その段階から、他者と自分の認識の違いが出ているのだ。
しかし、認識の違いとは、このような事を言うのだろう。
他者が見る自分と、自分が見る自分。
自分がこだわる自分は意外に理解されないが、他者にも見える自分はかなり強調されて認識されている。
それも、自分ではあまり意識していないが従来からの行動には見られない傾向の部分は更に強調されてしまうようだ。
これが要注意なのである。
今までにない自分が表現されている時、他者は自分への認識を更に高めている可能性は高い。
しかし、他者が理解している自分の強みがちょっと強化されたところで、他者の認識は今一つ盛り上がらない。
ここが、ポイントの高さ、低さなのである。
自分の想いを他者に理解してもらうには、従来からのイメージを変えるには相当努力して自分の外面を大きく変えていかないと、自分が想像するほどには他者の認識には至らないということである。
しかし、従来の自分に不可能だった事柄が、それほどの努力も無しにふとしたことから可能になった場合等は、意外に他者の反応は良好だったりする。
得てして、人生とはそのようなものなのだろう。
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