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2010年3月29日 (月)

彼岸の墓参り

皆さん、こんにちは。
 食品スーパーで店長をしている「てっちゃん」です。


先日、春彼岸の「お墓参り」に帰省してきた。

 帰省と言っても、帰る家はなく、お墓があるだけだ。
 
  いつも思うが、田舎には、自分を育ててくれた「自然」が存在する。
  私が「自然」を思う象徴は、「吾妻連峰」だ。

  特に、冬の吾妻連峰は、雪に覆われた西側の壁として、圧倒的な存在。

   “この自然を前にして、人間の存在の意味とは”

  そんな「悟り」を感じ取ってしまうほど、私にとっての山々は、大きな存在だ。

 春彼岸の「吾妻連峰」は、まだまだ冬の厳しさの残る景色だったのが嬉しい。

どんどん変わっていく故郷だが、お墓周りだけは変わらない。

 いつ行っても、のどかな景色と土の匂いが残っている。

 そして、今回も、無き父との会話を持った。

  *決して、亡霊として出てきたわけではありません。

 以前のブログ「父の存在」でも記したhttp://tetu-syoubai.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_2de6.htmlが、
 墓参り毎に、父と会話してくる。

 そして、今回も、私の後押しをしてくれた。

  「そのまま進め。」 と。

 それは、私の「心の鏡」のようなもので、
 
  私自身が迷えば、父との会話にも、迷いが生じ、
  私自身に迷いが無ければ、その回答も明快だ。

 だから、最近は、結論を以って、墓参りに行く事にしている。
 それまでに、自分の結論を下してから、父と逢う事にしている。

  それは、「生き方」の問題だ。

 父との会話も、「生き方」に関して。
 父と会話する事も、私の「生き方」。

  生き方に関して、父と会話出来る幸せ。
  それが、生前だったら、どんなに嬉しい事か。
  
 しかし、生前には絶対に心通わす事の出来ない壁がある。
 それが、お互いの自尊心なのだろう。
 
  父の死後、私の中から、自尊心が消えた。
  父の死から、「素直さ」を学んだのだろう。
  それは、父が、死を以って、私に伝えたかった事だ。

 そして、昔から普遍の地である、「お墓」の前に立つと、
 私自身の「心」も、その説得力が、更に増すのである。

  “心が洗われる”

 そんな心境になれる。

 年に数回、心を洗う行為は、大切な事なのだと、いつも思う。

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