彼岸の墓参り
皆さん、こんにちは。
食品スーパーで店長をしている「てっちゃん」です。
先日、春彼岸の「お墓参り」に帰省してきた。
帰省と言っても、帰る家はなく、お墓があるだけだ。
いつも思うが、田舎には、自分を育ててくれた「自然」が存在する。
私が「自然」を思う象徴は、「吾妻連峰」だ。
特に、冬の吾妻連峰は、雪に覆われた西側の壁として、圧倒的な存在。
“この自然を前にして、人間の存在の意味とは”
そんな「悟り」を感じ取ってしまうほど、私にとっての山々は、大きな存在だ。
春彼岸の「吾妻連峰」は、まだまだ冬の厳しさの残る景色だったのが嬉しい。
どんどん変わっていく故郷だが、お墓周りだけは変わらない。
いつ行っても、のどかな景色と土の匂いが残っている。
そして、今回も、無き父との会話を持った。
*決して、亡霊として出てきたわけではありません。
以前のブログ「父の存在」でも記したhttp://tetu-syoubai.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_2de6.htmlが、
墓参り毎に、父と会話してくる。
そして、今回も、私の後押しをしてくれた。
「そのまま進め。」 と。
それは、私の「心の鏡」のようなもので、
私自身が迷えば、父との会話にも、迷いが生じ、
私自身に迷いが無ければ、その回答も明快だ。
だから、最近は、結論を以って、墓参りに行く事にしている。
それまでに、自分の結論を下してから、父と逢う事にしている。
それは、「生き方」の問題だ。
父との会話も、「生き方」に関して。
父と会話する事も、私の「生き方」。
生き方に関して、父と会話出来る幸せ。
それが、生前だったら、どんなに嬉しい事か。
しかし、生前には絶対に心通わす事の出来ない壁がある。
それが、お互いの自尊心なのだろう。
父の死後、私の中から、自尊心が消えた。
父の死から、「素直さ」を学んだのだろう。
それは、父が、死を以って、私に伝えたかった事だ。
そして、昔から普遍の地である、「お墓」の前に立つと、
私自身の「心」も、その説得力が、更に増すのである。
“心が洗われる”
そんな心境になれる。
年に数回、心を洗う行為は、大切な事なのだと、いつも思う。
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